■ That’s感


That's“感”-(雑感)と銘打ち、感じたことを思いつくままに書いています。

■ ポーランド出張回想 2009.11.11


 最近、読売新聞にポーランドのグダンスク造船所(旧レーニン造船所)の様子が報道されていた。冷戦終結20年の機を捉えた、そのシリーズ記事によると、自主管理労組「連帯」発祥の地として知られる同造船所は、今や商船建造所としてではなく、ヒップホップ音楽の流れるナイトクラブとして利用され、若者で賑わっているという。時々、日本のメディアでもグダンスク関連ニュースを目にすることがあるが、この記事を見て、時代の移り変わりを感じさせられた。

 民間時代、海運・造船業界の取材で20数カ国を旅してきた。そのほとんどが一人旅で、最も長い取材旅行は1996年2~3月、3週間がかりのスウェーデン、ポーランド取材だった。スウェーデンを2週間かけて回り、イスタッド市からワンナイトフェリーに乗り、翌朝、ドイツ国境近くのシュチェチンに到着してポーランド入りし、それから3日ほどポーランド造船業を取材した(当時ポーランドは欧州造船業の中では商船部門で比較的大きなシェアを持っていた)。わずかな海外渡航体験しかない自分だが、ポーランドには強い印象を持った。最も外国らしい海外都市を問われれば、今もこの時に訪ねたグダンスクを真っ先に挙げる。

 初のポーランド取材であり、当時は鉄道での移動は難度が高かったので、ある会社の駐在員に3日間の足になるタクシーをアレンジしてもらった。フェリーターミナルには、エドワードという“名”のタクシー運転手が待っていた。ギリシャ船の船員であっただけに、外国語としてはロシア語かドイツ語を使うポーランド人にしては珍しく英語が堪能。カーステレオから流れるポリッシュワルツにあわせて大声で歌い続ける騒々しい運転手だったが、シュチェチン造船訪問のあと、約500㌔東のグダンスクまで移動する車中の会話は、民主化以降の国情、ペレストロイカに対する見方、ポーランド人気質などを知る意味などで有意義だった。

 今はどうか知らないが、通常、取材はどの国でも昼休みに一旦休止し、食事タイムを採るのに、ポーランドはぶっ通しで行われた。シュチェチン造船訪問の際は(写真右)、午後1時を過ぎても相手は全くそわそわする気配がない。「ソ連時代からの習慣で、我々は勤務中、昼食のための休憩は採らない」とインタビュー続行を促したが、こちらは極度の空腹状態。エドワードに頼み、グダンスクまでの街道沿いの小さなレストランに入ったのは午後3時過ぎ。客は自分たちだけかと思ったが、驚くことに昼食を採る人で満席だった。そして、そこで食べた腸詰め入りのズッペ(スープ)のうまさは、今でも忘れることができない。

 グダンスクには夜遅く着き、それから2泊した。道路に対して並行に建っていない建物、街角に堂々たむろしている野良犬の群れ、真冬の深夜に無言のまま殴り合っている二人の青年・・・初っぱなから驚かされた。翌朝、グダンスク造船所を訪ねたが、担当者が英語を話せず、エドワードが急遽、英語/ポーランド語間の通訳を買って出てくれた。ソ連向け船舶需要が激減したと言っても、造船所の運営に自信を持っていることが感じられたし、「連帯」の活動拠点となった建て屋、雪の積もった広場に立つ「連帯」のモニュメントを案内してくれる口ぶりに、強いプライドのあることを感じた。だから、13年も前の話しではあるが、歴史あるグダンスク造船所、民主化の先駆け「連帯」ともの様変わりを伝える今回の新聞報道には少なからずショックを覚えた。

 しかし、ポーランドは高い教育水準と若年層の多さ、EU先進国に対しての低い人件費、ズロチ(自国通貨)安などの要因が重なり、今やEU諸国から生産工場、研究機関の立地が進んでいる。国内インフラ整備で増大する内需も影響し、経済成長率は欧州トップクラスと言われているそうだ。エドワードは当時、「我々は手にした自由をもてあましている。どう生きていくべきか、まだ整理がついていない。もう少し時間がかかるのでは」と言っていた。しかし、民主化から20年も経ち、元々ポーランドが持っていた底力が顕在化してきたようにも思える。

 ナチスドイツがグダンスク近郊を砲撃し、第2次世界大戦を引き起こしたのが70年前の1939年9月1日。焦土と化した旧市街地を戦後、ポーランド人は長い時間と大変な労力をかけ、街並みを見事に復興させた。その再生された建築物の精緻なこと。人間の力はかくも偉大なのかと、ポーランド人の精神力に驚嘆させられた。

 何十年先になるか分からないが、いつの日か再びポーランドを訪ねてみたい。そこには恐らく、グダンスク初訪問の時とは全く違う驚きが待っているだろう。またその時には、13年前は断念せざるを得なかった“負の世界遺産”アウシュビッツまで足を運び、犠牲者の冥福を祈り、そして平和への決意を命に刻みたい。もちろん、エドワードの自宅も訪問し、旧交を温めたいと思う。

シュチェチンからグダンスクへ、街道をゆく車窓の夕景。

 

 

 

途中の売店で買い物し、ジャガイモ畑の先に沈む夕日に感動した。

 

 

 

砲撃で壊滅した後、見事に再生されたグダンスク旧市街地の建物。

 

 

 


■ 未来の声 2009.3.25


 大変有り難いことに、学校行事に参加する機会が多い。恒例の行事で、特に強い感動を覚えるのは卒業式。今年も小中学校の卒業式に出席させていただいた。一緒に歌を歌っているうち、自然と胸にこみ上がるものがあった。未来からの使者の声というか、希望の塊の声というか、卒業生が発する返事や歌声は、それぞれ本当に素晴らしい。聞く者の心を打たずにおかない不思議な響きを持っている。

 慣れ親しんだ学舎を巣立ち、新たな道を進む。前途に待ち受けているのは未知の世界。その心境をタペストリーに喩えれば、きっと不安の横糸が強く発色しているはずだ。しかし、恩師の教えや友との友情を胸に、真っ直ぐに、新たな自分の道を自分の力で進んでいこうとする心、新たな一歩を踏み出そうとする心が尊い。そこに無限の可能性や強い希望の輝きを感じ、心を打たれるのでは、と分析している。

 翻って日本の将来は、世界の将来はというと、少なくとも現状は芳しいものではない。ある中学校の卒業式では、校長先生が式辞で世界同時不況に触れていた。もちろん深刻なのは経済・雇用情勢だけではない。国内では少子高齢化の進行と人口減少、医療危機、頻発する重大犯罪などがあり、世界規模では地球温暖化など環境問題、テロリズム、人口増大と食料不足、ボトムビリオンに象徴される貧困問題など、たくさんある。すべて政治の性とするのは正しくないと思うが、それでも政治や行政が担っている領域は広範囲で、かつ責任も重大であるのは確かだ。

 名前を読み上げられ、卒業証書を受け取りに壇上に上がる子供たち。心配になるほど緊張した面持ちの子もいれば、ずっと笑顔を絶やさない子、その年齢にふさわしくないほど悠然とした振る舞いの子もいる。違いはあっても、それぞれ21世紀人類史に欠けてはならない主役の存在であることは間違いない。いろんな荒波を乗り越え、人生の勝利者を目指し、威風堂々と生き抜いてもらいたい、と祈るような気持ちでお一人お一人に会釈した。みなさんが活躍する舞台を整えていくこと、それが卒業式でいただいた感動に対する恩返し、との思いを抱きつつ、卒業式会場を後にした。

 

 

 

■ 47という歳 2008.3.9


 3月17日が誕生日なので、あと1週間は47歳。例年のことだが、誕生日を迎えるたび、終わってしまった年齢への執着心を発見する。新しく一つ増えた年齢を考える時より、リアルに“加齢”を感じる瞬間だ。47歳という年齢に、あの頃はまだ若かったと思える日が、すぐやってくる。

 最近、米国の大統領候補選びがメディアを賑わしているが、もしバラク・オバマ氏が民主党の正式候補となって、11月の大統領選に勝てば、就任時の年齢は47歳。時と所を変え、中国では蜀の丞相・諸葛孔明が、亡き先帝・劉備玄徳への誓いを果たすため、魏への戦いを後主・劉禅に上奏する「出師の表」を出したのが、47歳の時だったという。フランスでは、キュリー夫人の夫、ピエール・キュリー博士が最愛の家族を残し、交通事故で逝去したのが47歳になる約1カ月前だった。

 世界の偉人と自分を対比する気は毛頭ない。強引に47歳にこじつける気もない。ただ、何故か最近、読んだり見たりするものの中に、この年齢をみつけてしまう。これも何か意味があるのだろう。偉人たちが人生の転機を迎えたその年齢と、同じ歳を生きている自分も、きちんと人生の“時”をつかみ、本懐を遂げる着実な歩みを刻んでいかなければならない、と深く考えるきっかけにはなっている。

 昨年、47歳で2期目の市議選を戦った。どれほど献身的な、真心からの御支援をいただいたことか、選挙戦を思い出す時、今も胸にこみ上げるものがある。寄せられた期待、信頼に応えられるかどうか、任期の4年・1,461日の一瞬一瞬が真剣勝負だ。「最上の幸福は、一年の終わりにおける自己を、一年の始めにおける自己よりも、より良くなったと感ずることである」とのトルストイの箴言があるが、それは、瞬時も緊張を解かない自己との闘争の中でこそ、体現するものなのかもしれない。自分の47歳もまた、残り1週間で決まる。

 

 

 

■ 国際化施策に取り組む理由(わけ) 2008.2.24


 民間時代、出張先の上海で懇意になった、ある和食レストランのシェフの言葉が忘れられない。「アメリカの一流ホテルでもシェフをやったことがあるし、いろんな国で働きました。嫌な思いもいっぱいした。でも、これだけは言える。世界には圧倒的に良い人間の方が多い」。そのシェフはかなりの強面(こわもて)の人で、ウェイトレスにも容赦ない叱責を飛ばしていたが、話してみると何とも人間味に溢れる人だった。若干難航していた旅だっただけに、この一言がどれほど励ましとなったことか・・・。

 初めて市議選に出た5年前、取り組む政策の一つに「姉妹都市提携など国際交流の推進」を掲げた。八王子市の姉妹都市は、千人同心の縁で、日光市と苫小牧市の2市だけであり、海外には姉妹都市がなかった。だから単純に、海外の都市とも交流を、と主張したわけではない。異なる文化や異なる考え方を持った人たちと交流することで、自分の感性からは異質と思われるものを尊ぶ機会ができ、翻って自身の人間性も豊かになるという実体験からくる確信があり、本格的な国際化政策を市政に持ち込もうとしたのだった。

 

 もちろん、国際化は明るい面ばかりではない。実際に交流してみると、文化や習慣の違いから摩擦が起きたり、交流する国によっては歴史認識の壁に戸惑う場面があるかもしれない。日本で生活する外国人との共生、いわゆる“多文化共生”施策も、国際化の負の側面と向き合うことを忘れたら不完全だ。バラ色だけで彩られるはずがない。しかし、それでも国際交流には否定できない大きな意味がある。全人類的視座に立った問題意識の共有、同じ時代に同じ地球で息づくものの連帯感の共有、という言葉で括れるのかもしれない。

 

 市内の外国人の支援は、今まで、心ある市民団体の方たちがボランティアで支えてくれていたが、八王子駅前の拠点“国際交流コーナー”開設を契機に、ネットワークが飛躍的に拡大した。市制90周年の節目を迎えた2006年秋、中国・韓国・台湾の素晴らしい学園都市との友好交流提携も実現した。国際交流の主役はどこまでも市民。スポーツ、文化交流が本格化していることは嬉しいことである。地道に活動を継続することで、歴史と文化の学園都市・八王子の潜在力は必ず顕在化する、との確信はさらに深くなっている。

 

 

 

■ 記者の仕事と議員の仕事 2004.2.26


 市議会議員という職務に就き、やがて1年になろうとしている。選挙中もそうだったが、毎日が新しい人、新しい出来事との遭遇だ。市民の付託を得て、議会に送り出してもらったこの身の責任は大きい。戸惑う場面も多いが、責務を全うするため、必死の努力を続けている。

 18年半に及んだ新聞記者の仕事は、海運・造船という限られた業界を対象としてきたが、年を追うごとに「こんなに面白い仕事はない」と思うようになっていった。党から出馬の話があり、一生務めようと考えていた記者稼業に終止符を打った。まったく新しい仕事のはずだった。が、最近は共通点も多いと感じるようになっている。

 記者の仕事は、問題意識を持って人に会うことが基本。「現場第一」主義で取材に汗を流していく中、経験上、必ずパッとひらめく瞬間が来る。それをもって取材を積み重ね、確信を深めた段階で、締め切りというプレッシャーをバネに一気に記事を書き上げていく。十分な取材をして書いた記事には反響も大きい。その歓喜が次のテーマに挑戦する意欲をかき立ててくれる。

 市議会議員の仕事も基本動作は人に会うことと思う。「現場第一」主義を身に帯し、苦しんでいる人、問題意識や意見のある人に会い、その解決を求めて関係者や専門家、事情通などと面談し、先輩議員に相談していく。何が問題でどう影響しているのか、どうすれば解決できるのかを突き詰め、本会議や委員会での政策提言という形につなげる。結果として、具体的な施策に反映された時、その喜びは形容できないほど大きい。

 記者の仕事と議員の仕事には共通項がある。やりがいに満ちている。それだけに背負う責任も大きい。第3の権力といわれるマスコミは、事実報道に止まらず、オピニオン・リーダーとしての力を強めている。意図的に世論をミスリードする記事で、司法の場で指弾されるマスメディアがあることは、ごく一部といえ、非常に残念だ。もちろん、人々の生活に直結する議案の審議権、採決権を付託されている議員の責任は、非常に重いものがある。声なき声に耳を澄ます努力、自己研鑽の努力を惜しむことがあってはならないと、日々自分を戒めている。